競走馬は、どの馬よりも早く走る事を目的として調教や飼育をされています。
今回紹介するのは、他馬の追随を許さない大逃げと、最後まで衰えない末脚があったサイレンススズカです。
どの馬よりも早く走り、馬自信も無理をしていない走りを実現させていました。
しかし、沈黙の日曜日を境に、この世から姿を消してしまいます。
今回は、そんなサイレンススズカを振り返って紹介します。
サイレンススズカはどんな馬?
競馬で走るサラブレッドは速さだけを求めて、生産がされています。
とにかく速い事が使命であり宿命であり、競馬に於いて逃げて勝つのが1番強い勝ち方であるとも言われています。
理由は簡単で、その速さに誰もついて来ることが出来ないという美を持っています。
自身の体に備わったサラブレッドの人知を超えたスピードを武器に、ただひたすらスタートからゴールまでを先頭で走る続けた快速馬が存在していました。
何かに怯えて逃げていたわけではなく、自分のスピードの限界に挑戦していた馬こそが『サイレンススズカ』です。
今回は、伝説の逃げ馬と今でも語り継がれる、サイレンススズカを紹介します。
4歳になりサイレンススズカは栗東の橋田満厩舎に入厩しました。
そして、1997年2月1日の京都競馬場でデビューしたサイレンススズカの単勝オッズは1.3倍と圧倒的なものでデビューします。
後続との差を広げ7馬身差のパフォーマンスで見事デビュー戦を勝利しました。
次走は、皐月賞トライアルの弥生賞です。
皐月賞は外枠発走となってしまい、いざスタートを切ったら出遅れてしまいました。
しかし、サイレンススズカはすぐに馬群に取り付き、 最後のコーナーでは3番手まで進出しますが、さすがにこれには勝てませんでした。
これで、皐月賞への道は絶たれました。
陣営は目標をダービーに切り替えていきます。
最後のダービートライアルのプリンシパルステークスに出走したサイレンススズカだが、今までとは一変した作戦に打って出ました。
そこで見事ダービーへの切符を掴みました。
そしてダービー当日です。
ゲートが開き皐月賞馬のサニーブライアンが真っ先に逃げました。
その結果、サイレンススズカはひどく折り合いでもまれ、サイレンススズカは9着に敗れました。
その後は、距離適性を考えて天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップと出走するが6着、15着と負けました。
まだ、自分のスピードをコントロールする事が出来なかったのです。
その後、1998年最初のレースは東京のオープンのバレンタインステークスです。
大外からスンナリハナに立つとスピードに任せて進んで、1000m通過が57.8の明らかなハイペースでした。
そんな暴走ペースにも関わらず2着に4馬身差をつけ勝利します。
その後、中山記念と小倉大賞典と重賞を連勝して挑んだ宝塚記念の前哨戦の金鯱賞です。
好スタートを切ると我先にと先頭に躍り出たサイレンススズカです。
サイレンススズカが直線を向いたころにはまだ10馬身近くの差があった。
後続は全く追いつくことが出来ずにサイレンススズカの大勝利します。
タイムも当時のレコードの1:57.9を出します。
ここまで4連勝し春のグランプリ宝塚記念へと進みました。
大外枠の13番からスタートを切ったサイレンススズカはいつも通りハナに立ちます。
ここで遂に念願のG1のタイトルを獲得します。
秋になりサイレンススズカは天皇賞(秋)へのステップとして毎日王冠を選びます。
これで6連勝します。
下記にサイレンススズカの競走馬データを紹介します。
馬名 | サイレンススズカ |
---|---|
欧字表記 | Silence Suzuka |
香港表記 | 無聲鈴鹿 |
品種 | サラブレッド |
性別名 | 牡馬 |
毛色 | 栗毛 |
誕生日 | 1994年5月1日 |
死没 | 1998年11月1日(4歳没・旧5歳) |
登録日 | 1997年2月1日 |
抹消日 | 1998年11月1日 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | ワキア |
生産 | 稲原牧場 |
馬主 | 永井啓弐 |
調教師 | 橋田満(栗東) |
調教助手 | 調教助手 |
厩務員 | 加茂力 |
サイレンススズカの競走成績
サイレンススズカは過去に数多くの名勝負を見せつけてきました。
こちらでは、サイレンススズカの過去の競走成績を一覧で紹介します。
日付 | 競馬場 | 競走名 | クラス | 着順 |
1997.10.26 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | 6着 |
1997.11.16 | 京都 | マイルCS | GI | 15着 |
1997.12.14 | 沙田 | 香港国際C | GII | 5着 |
1998.2.14 | 東京 | バレンタインS | OP | 1着 |
1998.3.15 | 中山 | 競走名 | 中山記念 | 1着 |
1998.4.18 | 中京 | 小倉大賞典 | GIII | 1着 |
1998.5.30 | 中京 | 金鯱賞 | GII | 1着 |
1998.7.12 | 阪神 | 宝塚記念 | GI | 1着 |
1998.10.11 | 東京 | 毎日王冠 | GII | 1着 |
1998.1.1 | 東京 | 天皇賞(秋) | GI | – |
サイレンススズカのレーススタイル
最大の特徴は他馬を近づけさせない大逃げと、最後まで衰えない末脚だと思います。
5歳の時にようやく息を入れることを覚え、そのころあたりから大逃げをしながら最後をまとめられるようになりました。
この馬にとってのマイペース=普通の馬のハイペースという事になります。
サイレンススズカの名勝負
様々な意見が存在しており、後続を大きく突き放して大差の圧勝を飾った金鯱賞と、エルコンドルパサー、グラスワンダーとの3強対決で完勝した毎日王冠がベストレース候補として挙がることが多いようですが、個人的には『小倉大賞典』を上げたいと思います。
4歳となってバレンタインS、中山記念と2連勝していたサイレンススズカですが、中山記念では掛かり気味に逃げた上に直線で内にササるといったように、まだ粗削りな走りが目立ちました。
しかし、この小倉大賞典では鞍上の武豊騎手が直線までほぼ何もせずに、さらに直線ムチを使わずに軽く追っただけで後続を突き放して圧勝した逃げの完成形がみえました。
サイレンススズカ引退後【沈黙の日曜日】
上記でも簡単に説明しましたが、サイレンススズカは故障により安楽死という最悪な結果になってしまいました。
その当時の内容を細かく説明します。
1998年11月1日(日)東京競馬場で第118回天皇賞(秋)(G1)が開催されました。
逃げ馬にとっては絶好の1枠1番でした。
最内からスタートを切ったら後は逃げるだけです。
1000mを57.4のハイペースではあるが、もはやこの馬にハイペースなど存在しませんでした。
これがサイレンススズカペースなので、先頭からシンガリまではもはやとんでもない差になっていました。
しかし、軽快に気分良く走っていたサイレンススズカが大欅を過ぎた時に悲劇がおきました。
バランスを崩し武豊が手綱を引いて、一目で故障発生と分かるアクションでした。
そのまま外に行ったサイレンススズカだが、鞍上の武豊を馬上から落とすことはしませんでした。
武豊は下馬をし馬に付き添って、必死に立っているがもがいているサイレンススズカ。
結果は『左前脚の手根骨粉砕骨折』これがサイレンススズカに下った症状だった。
結果は安楽死で、生きる事は許されませんでした。
速さの代償と言うには余りにも残酷すぎる結末です。
まとめ
今回は、サイレンススズカの全てについて説明しました。
競馬ファンに与えた鮮烈な印象が強い伝説の逃げ馬のサイレンススズカですが、最悪な終わり方をしてしまいます。
数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であったとも言えるでしょう。
今後もサイレンススズカのような、誰よりも早く走る馬が出てくる事を楽しみにしたいと思います。