日本初!生涯獲得賞金10億円を超えたメジロマックイーンの歴史や名勝負を徹底紹介

メジロマックイーン 競走馬解説

メジロマックイーンは史上初の天皇賞父子3代制覇を達成したGⅠ馬です。

幼いころは体質が弱く、デビューも4歳(現3歳)の2月と遅く、新馬勝ちしたもののデビュー前からの骨膜炎に悩まされていましたが、復帰から徐々に名馬としての頭角を表してきました。

そして、数々のレースで勝利し獲得賞金10億1465万7700円という偉業を成し遂げたのです。

本記事ではそんなメジロマックイーンがどんな馬だったのか紹介していきます。

メジロマックイーンはどんな馬?

メジロマックイーン

メジロマックイーンは中央競馬で菊花賞、宝塚記念、天皇賞(春)(2回)などに優勝、1991年春の天皇賞では祖父メジロアサマ、父メジロティターンに続く父子3代天皇賞制覇を成し遂げた有名な競走馬です。

同年秋の天皇賞で、日本におけるGI競走史上初の1位降着も記録しています。

獲得賞金10億1465万7700円は、当時の世界最高記録しました。

獲得賞金額が10億円を突破した最初の馬になっており、今でも伝説になっています。

名前の由来は、馬主の冠名「メジロ」とアメリカの俳優スティーブ・マックイーンの組み合わせで決まっています。

愛称は「マック」と呼ばれており、半兄に1986年の菊花賞、1987年の有馬記念を制したメジロデュレン(父フィディオン)がいます。

下記にメジロマックイーンの競走馬データを紹介します。

馬名 メジロマックイーン
欧字表記 Mejiro McQueen
品種 サラブレッド
性別名 牡馬
毛色 芦毛
誕生日 1987年4月3日
死没 2006年4月3日
メジロティターン
メジロオーロラ
生産 吉田堅
馬主 メジロ商事(株)
調教師 池江泰郎(栗東)
調教助手 調教助手
厩務員 早川清隆

メジロマックイーンの競走成績

メジロマックイーンは過去に数多くの名勝負を見せつけてきました。

こちらでは、メジロマックイーンの過去の競走成績を一覧で紹介します。

日付 競馬場 競走名 クラス 着順
1991.10.6 京都 京都大賞典 GII 1着
1991.10.27 東京 天皇賞(秋) GI 18着
1991.11.24 東京 ジャパンC GI 4着
1991.12.22 中山 有馬記念 GI 2着
1992.3.15 阪神 阪神大賞典 GII 1着
1992.4.26 京都 天皇賞(春) GI 1着
1993.4.4 阪神 産経大阪杯 GII 1着
1993.4.25 京都 天皇賞(春) GI 2着
1993.6.13 阪神 宝塚記念 GI 1着
1993.10.10 京都 京都大賞典 GII 1着

メジロマックイーンのレーススタイル

メジロマックイーン

メジロマックイーンは、「無尽蔵」とも言われた豊富なスタミナから、ハイペースの長距離戦でも先行押し切りというレーススタイルで、一般的にステイヤー(長距離得意の馬)と認識されており、「史上最強のステイヤー」とも評されています。

しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ「マイルのGIレースでも勝負になった」「マイルでも走ったと思うよ。安田記念に使ったら?って言ったぐらいだから」と発言していました。

また、一般に見られる例とは逆に、加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今のマックイーンに3200mは長すぎます」とも語っていました。

また、操縦の面でも「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった」と語られており、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ」と評価されています。

競走成績全体を見ても、掲示板(5着以内)を外したのは5歳時の秋の天皇賞のみだが、1位入線しながらの降着によるものであり、実質的には掲示板を外したことは1回もありません。

メジロマックイーンの名勝負

メジロマックイーン

メジロマックイーンは天皇賞(春)を2連覇した、90年代前半の名ステイヤーです。

3000m以上のレースなら、7戦5勝2着2回のほぼパーフェクトで、そのレースはまさに無敵とも言える名馬でした。

メジロマックイーンは、好位からレースを進め、3角すぎから先行集団を潰しにかかり、同時に後続に脚を使わせると直線は独壇場になります。

この最強の走りを変えたのは、同じ名馬のライスシャワー1頭のみです。

当時、メジロライアン、ホワイトストーン、カミノクレッセ、メジロパーマーといったライバルたちは、メジロマックイーンの強さの前にただただ前を譲るレースになっていました。

しかし、メジロマックイーンの走りは、弱点の裏返しだった事がわかりました。

池江調教師が「素質は弟(メジロマックイーン)のほうが上。でも、勝負根性なら兄(メジロデュレン)のほうが上」と語るように、メジロマックイーンは接戦に弱点が存在しました。

メジロマックイーン引退後

メジロマックイーン

競馬史に残る活躍を見せたメジロマックイーンは、親子四代天皇賞制覇の偉業に挑むべく引退後に種牡馬入りしました。

主流血統を持たないことから、配合の選択肢が多く、重賞ホースなど質の高い繁殖牝馬を集めたものの大物産駒に恵まれず親子四代制覇の夢は叶いませんでした。

しかし、マックイーンが遺伝力の高さを発揮したのは、父ではなく母の父となってからでした。

ステイゴールドとマックイーンの娘の組み合わせからドリームジャーニー、オルフェーヴル兄弟をはじめゴールドシップという活躍馬が相次ぎ繁殖牝馬を廃業していたマックイーンの子供が再び繁殖牝馬として買い戻されるという事態も起こりました。

1991年 天皇賞(秋)降着問題の真相

メジロマックイーン

メジロマックイーンと言えば天皇賞3代制覇とともに語り継がれているのがこの1991年の天皇賞(秋)の降着事件です。

重馬場で行われたこのレース、マックイーンは好位を進み直線半ばで先頭に立ち、6馬身差の圧勝で勝利しました。

ところが、レースが審議になり、まさかの約15分後にマックイーンはGⅠ史上初の1着降着(18着)になるのです。

パトロールビデオを見ると、7枠13番と外目の枠からスタートしたマックイーンは、2コーナーで内側に斜行し、内側の馬がつられて内側に切れ込み、結果として18着だったプレジデントシチーが挟まれて落馬寸前だったことがよくわかります。

これにはいろいろな意見があり、「降着やむなし」という声が多い中、繰り上がり1着になったプレクラスニーの江田照騎手の騎乗にも問題があったという意見や、被害馬が落馬してないのだから、過怠金と騎乗停止で済ませるべき、などいろいろな見解がありましたが、個人的には府中の2000mの独特なコース形態が問題ではなかったかと思います。

ただ、当レースで不利を受けた岡部幸雄騎手や南井克己騎手といったベテランジョッキーも不満を露わにしており、当の武豊騎手はパトロールビデオを見せられるまで自分に非はないと思っていたという事件がありました。

まとめ

メジロマックイーン

メジロマックイーンはG1・4勝、G2・5勝を遂げ、獲得賞金は10億1465万円を獲得した名馬です。

これは、当時の世界最高額であり、史上初めて10億円を突破し、抜群の安定した走りを見せていました。

競馬界では非常に有名な話で、メジロマックイーンの走り方は、「競走馬の理想の走り方」と語られています。

常にレースで「強さ」を見せつけていましたが、2006年に20歳で亡くなってしまったのは残念です。

既に母父としてしか血は残せませんが、これからもオルフェーブルやゴールドシップのような馬を世に送り出してもらいたいと思います。